狂人的凡人日記

狂人について考察する凡人のブログです。たまに大学院とヨーロッパ生活の話が入ります。

哀れなるものたち(Poor Things)ーー女の解放と進歩の狂気

 

哀れなるものたち(原題:Poor Things)の先行上映をやっていたので見てきた。結論から言うと、とんでもない映画だった。時計仕掛けのオレンジとバービーを掛け合わせたみたいな映画だ。

 

ベラは、頭脳は幼児で身体は美女、というキャラクターで、彼女を蘇生させた生みの親、“ゴッド”と共に生活している。

「1日に15単語を覚える」という超ハイスピードで成長するベラは、次第に外の世界に憧れるようになり、ついに戯れ男 ダンカンと「駆け落ち」、世界を冒険する旅に出る――。

というストーリーだが、この映画、徹頭徹尾いろんな方面で狂っているのである。

 

以下、ネタバレあり

 

 

人間は進歩するのか?

 

ほんの少し前まで、人前で用を足したりオナニーをしたりするような奇行児だったベラが、旅を通して、貧困に苦しむ人を見て涙を流し、女性の解放を訴え、医者を目指すモダンな女性へと成長していく。

この映画は、人間が「進歩」していく様子を描いた物語なのだろうか?

果たしてそんなウルトラ・リベラリズムな映画がこの時代に受け入れられるだろうか・・・

 

少し斜めから物語を見てみたい。

 

ベラは航海の途中で、スラムに住む貧しい人々の存在を知る。死んでいく赤子や飢えに苦しむ人間を見、涙を流すベラ。しかしベラが優雅にお茶を飲んでいるゴージャスな城の上階と、スラムの人々が住む地下はずっとずっと離れており、2つの世界をつなげる階段は朽ち果てている。

何かしなければ、と彼女はギャンブルで大勝ちしたダンカンの金をかき集め、どうにか人々に渡すことができないかと考える。そこへ、その街で下船するという船乗りたちが、「そのお金をスラムの人に渡しておくよ」と現れる。

ちょうどいいわ、とダンカンの大金が入った箱を渡すベラ。大金を見て、顔を見合わせる船乗りたち。

 

大金の行く末が観客に明かされることはない。しかし大人であれば、そのお金が貧しい人々の手に渡らず、船乗りたちが使ってしまう結末を、容易に想像することができるだろう。

 

こんなシーンもある。

物語の終盤、ベラは彼女の体の「元の持ち主」ヴィクトリアの夫と対面する。この男は超サディスティックな嗜好の持ち主で、ヴィクトリアが自殺した要因でもあった。

結局、ベラを幽閉して女性器割礼を試みたヴィクトリアの元夫は、ベラによって銃で足を撃ち抜かれ、成敗される。それでもベラは、「人間は向上することができるから」と彼の命を救うのだが、なんと彼女は男の脳みそを取り出し、ヤギの脳みそに交換してしまうのである。

庭でメーメー鳴く元サド男・・・

 

さて、これは本当にベラの成長を表しているのだろうか?

 

ベラが貧しい人々に向けるまなざしは、現代社会で充足して暮らすわれわれの「それ」に近いものがある。われわれは苦しい立場に置かれている人々に「同情」することで、日常では得ることができない道徳的感情を手に入れ、満足しているのである。

 

そもそも貧困とは、金を渡して解決する問題ではない。その上、その金もベラ自身ではなくダンカンのものである。さらに、ベラはその金をスラムの人々に直接渡すという苦労を負うこともしない。(信用できるかもわからない)船乗りたちに金を預け、いいことをしたという道徳的満足心に浸り、そして自分は「精神の向上」という旅を続けるのである。

 

ヴィクトリアの元夫の脳みそをヤギのものに変えてしまう行為も、映画内ではユーモラスなものに見える。

しかし客観的に見て、自分が受け入れられない・劣った思想をもつ人間の脳をヤギの脳に入れ替える行為と、妻の女性器を切除しようとする行為、果たしてどちらが狂っているのだろうか?

 

リベラリズムは、リベラリズムを否定する思想を受け入れることができない、というテーゼが存在するが、「進歩的ではない」人間を排除し、その思想をまるっきり変えてしまえばいい、という考えは、現代にも多く見られる気がしてならない。

 

果たしてこれを見た上でも、人間は本当に進歩すると言えるだろうか。

 

 

徹底したリアリズム

 

この映画では、人間の「複雑な感情」とか「葛藤」とかいうものが一切排除されている。

 

狂気的な父親の実験台にされたせいでグロテスクな見た目を持つことになってしまったゴッドを除いて、それぞれのキャラクターが「なぜこうなってしまったのか」という背景はまったく描かれない。

みんな確かに嫉妬したり、泣いたり、笑ったりするのだが、物語の頭から尻尾まで、その理由はハッキリ分かるようになっている。

 

ベラが笑うのはゴッドのゲップが爆発するのが面白いから。

ダンカンが嫉妬するのは、ベラが他の男にウインクを返したから。

嫉妬の仕方も仰々しいぐらい単純だ。

 

ゴッド(=神)ですら自分が父親から残酷な扱いを受けたことを、極めて淡々と正当化し受け入れている。

この映画の中で、人間そのもの、そして人間の感情は、合理的かつフラットなものに過ぎない。

面白いことがあれば笑う、悲しいことが起これば泣く、という「反応」なのだ。

 

こういう奇妙で馬鹿馬鹿しい演出が、物語を一層狂ったものにしている。

 

 

女の解放?

 

公式サイトや役者インタビューの中では、「ベラは彼女をコントロールしようとする男たちに出会い、闘争し、自由を勝ち取る」といったメッセージが多く見られた。

 

果たしてこの映画をみて、単純にそう受け取る大人が何人いるだろう。

 

ベラは自由だ。彼女はもともと知能が高く、美しく、行動力がある。彼女は自分の欲望に忠実で、自分の持っているものは躊躇いなく使い尽くす女性だ。

確かに男たちは、各々の欲望をベラに投影し、ベラから何かを手に入れようとする。

 

一方で、ベラも男たちに自分の欲望を投影し、それを獲得していくのである。

もしベラと男たちの関係が「闘争」であったならば、果たしてベラはダンカンが用意した箱に身をいれるという選択をしただろうか?

ベラはなぜ、ゴッドやマックスのもとに戻ったのだろう。

何よりベラは、なぜヴィクトリアの夫に会いにいったのだろうか?

 

ベラの物語は、自由を求める闘争ではない。

美しく知的で狂気的な人間が、冒険を通して、(多少なりとも洗練されてくが)美しく知的で狂気的な人間であることを再発見し、肯定していく物語なのだ。

男たちだけでなく、ベラ自身も、Poor Things、哀れなるものたちの一員に過ぎないのである。

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私はベラが好きだ。私の生き方にはベラに近い部分もあるし、現代社会でそれなりにやっている女性であれば、多少なりとも心当たりがあるのでは、と思わずにはいられない。

しかし時には、社会のあり方みたいなものをしっかり理解しようと心がけることも大切かもしれない。われわれも哀れなるものの一部に過ぎないのだから。